うな記

若者の感傷

顔の最大化

濱口竜介がどこかで顔のクロースアップは顔に読み取られる感情の最大化ではなく、画面外への視線の最大化なのだ、と言っていたらしい。たしかに『ハッピーアワー』におけるクラブシーンの鵜飼はこの典型になっている。この言葉で思い出したのが異様なまでに顔のクロースアップが多用される『シン・ゴジラ』なのだが、この映画における顔のクロースアップは上記のどちらでもなく、端的に画面に対する顔の最大化であるように思う。およそ素朴な技法だが、素朴なものはたいてい強い。人間の顔はそれだけで(すくなくとも一瞬)画面が保たれる強度がある。総勢326人にのぼるキャストの顔は当然のことながらどれも異なっていて、しかし役に合わせて傾向がみられ面白い。政治家役はたいてい鵺のようであり、官僚役にはある種の神経質さが浮かぶ。現実もおおよそそうである。

 

村上春樹が昔「造形が良いわけではないけれど、眺めていればまあこれでもいいかと思う」ような顔という形容を奥さんにされたという話をしていて、しかしそれって結構な褒め言葉なのではないか。時間での最大化に耐える顔。

百合と可能世界

「東大法B3の女と慶應情報工学科のM1の女のカップルがいるとするじゃん、というかいるんだけど、だってこの世界にいなくても可能世界にはいるじゃんぜったい、可能世界だから、可能なんだよね、やばくない?やばい。いるんだよね、で、いるならいるでディテールがあるわけじゃん、現実だから、多分なんかのITベンチャーの夏季インターンとかで最初知り合うんだよね、でそこそこまあLINEぐらいは知りにいくかみたいな、でそこからなんで付き合うとこまでなんで行くかわかんなくて、考えたんだけど、多分創作百合の即売会とかで再会するんだよね、まじかーー、お互い作家で出してる、向こうは小説なんだけど、みたいな。で、まあいろいろあってみたいな、で気づいたんだけど、可能世界にはこういう経歴をたどるカップルが絶対いるんだよね、もちろんこの世界にいる可能性も棄却できないけどさ、わかんないじゃん、観測してないし、でもすくなくとも可能世界には絶対いるんだよね、怖くない?怖い。だって可能世界じゃん、ぜったいいるよ。いるいる。ぜったいいるんだよね、可能世界やべーーーっていう、どう思う?」

「可能世界についてその立場をとる哲学者は少数派だと思う、それこそデイヴィド・ルイスぐらい」

「そうか」

「うん」

当事者ではない、

当事者ではない、ということによる苦しみがある。

苦しみがあるならもはや当事者なのではないかということもできるわけだが、それでもなお彼我の差は歴然としていて、やはりなぜ私ではなかったのか?という疑問がつきまとう。この疑問は地震のあとの創作の原動力となり、例えば『君の名は。』では災害を(東京の人間が)未然に防ぐという解決に、あるいは『シン・ゴジラ』ではもはや(東京の人間を)災害の当事者にしてしまうという解決になる。

先日話題となった北条裕子「美しい顔」はまさにこの苦しみによる作品だった(剽窃云々は作品の問題の本質ではない)。7年前の震災について、しかも被災者ではない作家が、被災者の一人称を用いて書いたこの小説は、彼女が公言するように、現地に行かずまた被災者にも会わないという距離の置き方によってなりたっている。被災者の一人称によって震災の苦しみとさらにそこからの救いを描くということは、距離と時間を必要とする。すくなくとも現地に関わった作家たちには困難な所業であって、7年経って初めて出てきたということも当然だろうと思う。そのように書いてしまう、書かざるを得なかった、そのことの罪深さは作者のコメントを引くまでもない。しかしその小説に救われた人間がここにいることも表明しておきたい。そして、そのこと自体の罪深さも。

革命の実装について

われわれは、人類史上最も深遠な科学技術革命の一つを切り抜ける特権と責務とを負っている。今日の科学技術革命を特徴づけているのは、主に次のような二つの特色である。すなわちそれは、情報の創出と加工処理とに焦点を合わせたものである。その成果は過程-操作志向的なものであり、それだけにその作用ないし効力は人間的活動の全領域に対して普遍的なものである。(マニュエル・カステル, 1986) 

このカステルのいうところの情報技術に基づく科学技術革命は、30年を経たいまセンシングデータの量的爆発*1とdeeplearningによるパターン認識能力の獲得*2によって都市への実装能力*3をもたらしつつあるようにみえる。この推進へと共通認識を形成すべく内閣府によるSociety 5.0のようなキャッチーなフレーズが現れるわけだが、一方でこの社会実装はしばし既存の価値と対立し、制度を移行しうる強力な主体がいなければ困難を伴う。この革命は情報を対象にするがゆえに根底的であり、そしてこの国でそれは、社会実装によるというよりも価値を換骨奪胎するような形で完遂されるのではないか。