うな記

若者の感傷

当事者ではない、

当事者ではない、ということによる苦しみがある。

苦しみがあるならもはや当事者なのではないかということもできるわけだが、それでもなお彼我の差は歴然としていて、やはりなぜ私ではなかったのか?という疑問がつきまとう。この疑問は地震のあとの創作の原動力となり、例えば『君の名は。』では災害を(東京の人間が)未然に防ぐという解決に、あるいは『シン・ゴジラ』ではもはや(東京の人間を)災害の当事者にしてしまうという解決になる。

先日話題となった北条裕子「美しい顔」はまさにこの苦しみによる作品だった(剽窃云々は作品の問題の本質ではない)。7年前の震災について、しかも被災者ではない作家が、被災者の一人称を用いて書いたこの小説は、彼女が公言するように、現地に行かずまた被災者にも会わないという距離の置き方によってなりたっている。被災者の一人称によって震災の苦しみとさらにそこからの救いを描くということは、距離と時間を必要とする。すくなくとも現地に関わった作家たちには困難な所業であって、7年経って初めて出てきたということも当然だろうと思う。そのように書いてしまう、書かざるを得なかった、そのことの罪深さは作者のコメントを引くまでもない。しかしその小説に救われた人間がここにいることも表明しておきたい。そして、そのこと自体の罪深さも。