うな記

若者の感傷

顔の最大化

濱口竜介がどこかで顔のクロースアップは顔に読み取られる感情の最大化ではなく、画面外への視線の最大化なのだ、と言っていたらしい。たしかに『ハッピーアワー』におけるクラブシーンの鵜飼はこの典型になっている。この言葉で思い出したのが異様なまでに顔のクロースアップが多用される『シン・ゴジラ』なのだが、この映画における顔のクロースアップは上記のどちらでもなく、端的に画面に対する顔の最大化であるように思う。およそ素朴な技法だが、素朴なものはたいてい強い。人間の顔はそれだけで(すくなくとも一瞬)画面が保たれる強度がある。総勢326人にのぼるキャストの顔は当然のことながらどれも異なっていて、しかし役に合わせて傾向がみられ面白い。政治家役はたいてい鵺のようであり、官僚役にはある種の神経質さが浮かぶ。現実もおおよそそうである。

 

村上春樹が昔「造形が良いわけではないけれど、眺めていればまあこれでもいいかと思う」ような顔という形容を奥さんにされたという話をしていて、しかしそれって結構な褒め言葉なのではないか。時間での最大化に耐える顔。