2019年正月の読書

 

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

 

 蜂飼耳による新訳がとてもよかった(彼女のことをずっともっと高齢の男性だと今の今まで勘違いしていた…)。図版がついているのもよくて、鴨長明の庵と都のほどよい距離感をよみとれる。

 

ザッヘル=マゾッホ紹介 (河出文庫)
 

 昔好きだったエッセイの影響元だったので。元ネタを知った気持ちです。これでアイロニーとかユーモアとか言えるようになるぞ!

 

カンバセイション・ピース

カンバセイション・ピース

 

 素晴らしくおもしろい。この内容に文体にいい加減、飽きそうなものなのですが不思議に飽きない。

 

カルヴィーノ アメリカ講義――新たな千年紀のための六つのメモ (岩波文庫)

カルヴィーノ アメリカ講義――新たな千年紀のための六つのメモ (岩波文庫)

 

 草稿「始まりと終わり」が響きました。小説に限らない話でもあると思う(それでいいのだろうか?)。

 

完全人型

完全人型

 

愛されるための完全な機械ー完全人型を巡った複雑な三角関係。ちょっと強すぎる百合だった。整理がつかない。 百合に三角関係(あるいは三人以上の人間?)は必須という確信を強めた。

 

制度とは何か──社会科学のための制度論

制度とは何か──社会科学のための制度論

 

 制度論の手堅い定式化。表紙がかわいい。盛山和夫『制度論の構図』との比較を考えたい(これは宿題)。

 

あとは芥川賞の候補作を一通り読んでいた。クオリティとしては古市がとってもまあおかしくないだろうとは思わされた(意地でも取らせないでしょうが)。

顔の最大化

濱口竜介がどこかで顔のクロースアップは顔に読み取られる感情の最大化ではなく、画面外への視線の最大化なのだ、と言っていたらしい。たしかに『ハッピーアワー』におけるクラブシーンの鵜飼はこの典型になっている。この言葉で思い出したのが異様なまでに顔のクロースアップが多用される『シン・ゴジラ』なのだが、この映画における顔のクロースアップは上記のどちらでもなく、端的に画面に対する顔の最大化であるように思う。およそ素朴な技法だが、素朴なものはたいてい強い。人間の顔はそれだけで(すくなくとも一瞬)画面が保たれる強度がある。総勢326人にのぼるキャストの顔は当然のことながらどれも異なっていて、しかし役に合わせて傾向がみられ面白い。政治家役はたいてい鵺のようであり、官僚役にはある種の神経質さが浮かぶ。現実もおおよそそうである。

 

村上春樹が昔「造形が良いわけではないけれど、眺めていればまあこれでもいいかと思う」ような顔という形容を奥さんにされたという話をしていて、しかしそれって結構な褒め言葉なのではないか。時間での最大化に耐える顔。

百合と可能世界

「東大法B3の女と慶應情報工学科のM1の女のカップルがいるとするじゃん、というかいるんだけど、だってこの世界にいなくても可能世界にはいるじゃんぜったい、可能世界だから、可能なんだよね、やばくない?やばい。いるんだよね、で、いるならいるでディテールがあるわけじゃん、現実だから、多分なんかのITベンチャーの夏季インターンとかで最初知り合うんだよね、でそこそこまあLINEぐらいは知りにいくかみたいな、でそこからなんで付き合うとこまでなんで行くかわかんなくて、考えたんだけど、多分創作百合の即売会とかで再会するんだよね、まじかーー、お互い作家で出してる、向こうは小説なんだけど、みたいな。で、まあいろいろあってみたいな、で気づいたんだけど、可能世界にはこういう経歴をたどるカップルが絶対いるんだよね、もちろんこの世界にいる可能性も棄却できないけどさ、わかんないじゃん、観測してないし、でもすくなくとも可能世界には絶対いるんだよね、怖くない?怖い。だって可能世界じゃん、ぜったいいるよ。いるいる。ぜったいいるんだよね、可能世界やべーーーっていう、どう思う?」

「可能世界についてその立場をとる哲学者は少数派だと思う、それこそデイヴィド・ルイスぐらい」

「そうか」

「うん」