うな記

若者の感傷

当事者ではない、

当事者ではない、ということによる苦しみがある。

苦しみがあるならもはや当事者なのではないかということもできるわけだが、それでもなお彼我の差は歴然としていて、やはりなぜ私ではなかったのか?という疑問がつきまとう。この疑問は地震のあとの創作の原動力となり、例えば『君の名は。』では災害を(東京の人間が)未然に防ぐという解決に、あるいは『シン・ゴジラ』ではもはや(東京の人間を)災害の当事者にしてしまうという解決になる。

先日話題となった北条裕子「美しい顔」はまさにこの苦しみによる作品だった(剽窃云々は作品の問題の本質ではない)。7年前の震災について、しかも被災者ではない作家が、被災者の一人称を用いて書いたこの小説は、彼女が公言するように、現地に行かずまた被災者にも会わないという距離の置き方によってなりたっている。被災者の一人称によって震災の苦しみとさらにそこからの救いを描くということは、距離と時間を必要とする。すくなくとも現地に関わった作家たちには困難な所業であって、7年経って初めて出てきたということも当然だろうと思う。そのように書いてしまう、書かざるを得なかった、そのことの罪深さは作者のコメントを引くまでもない。しかしその小説に救われた人間がここにいることも表明しておきたい。そして、そのこと自体の罪深さも。

革命の実装について

われわれは、人類史上最も深遠な科学技術革命の一つを切り抜ける特権と責務とを負っている。今日の科学技術革命を特徴づけているのは、主に次のような二つの特色である。すなわちそれは、情報の創出と加工処理とに焦点を合わせたものである。その成果は過程-操作志向的なものであり、それだけにその作用ないし効力は人間的活動の全領域に対して普遍的なものである。(マニュエル・カステル, 1986) 

このカステルのいうところの情報技術に基づく科学技術革命は、30年を経たいまセンシングデータの量的爆発*1とdeeplearningによるパターン認識能力の獲得*2によって都市への実装能力*3をもたらしつつあるようにみえる。この推進へと共通認識を形成すべく内閣府によるSociety 5.0のようなキャッチーなフレーズが現れるわけだが、一方でこの社会実装はしばし既存の価値と対立し、制度を移行しうる強力な主体がいなければ困難を伴う。この革命は情報を対象にするがゆえに根底的であり、そしてこの国でそれは、社会実装によるというよりも価値を換骨奪胎するような形で完遂されるのではないか。

ノスタルジーと電脳コイル

電脳コイルの奇妙さは、未来の物語であるにもかかわらず、ノスタルジーに訴えかけることにある。そしてそれは過渡期の未来を描くことによる成果だ。ノスタルジーは記憶と結びついている。今ここにはないものを思いかえす、その行為の起点に記憶はある。十分な未来において記憶と記録は一致するが(攻殻機動隊)、電脳コイルはそこには至らない。大人には見えないけれど確かにあったもの、大人には隠れているけれども、子供達にはあった確かな冒険、それが大人には見えない電子データという形で変奏される。老人に子どもたちが扱えるのは彼らが子供の領域にいるからだ。デンスケもメタバグも電子データだ。電子データはマテリアルよりも脆い。紙は100年以上続くがフラッシュメモリは10年と保たない。確かな冒険は失われてしまうし、失われた電子データは記憶をもとにたぐり寄せるほかない。情報化が進んだ未来でこそ記憶が求められるのだ。しかし十分に情報化が進んでしまえば記憶も感覚も記録と同化する。それは過渡期を描いたからこそ、可能な物語であった。

ケベックのナイトクラブについて

ケベックにナイトクラブがあるのかどうかはともかく、少なくとも僕にはこのクリックハウスの名曲の名前として記憶されている。しかし実際にあるのかどうか確かめたことはなく、でもケベックは大都市だし(だよね?)ナイトクラブぐらいあるだろう、曲名にもなっているわけだしということで僕の中では収まっている。これでなかったらなかったでかなり皮相な曲になってしまうわけで、でもタイトルで一曲を皮相に出来るぐらいにはケベックのナイトクラブはあるのだろう。なんにせよ、ケベックのナイトクラブに行くことも、あるいは存在を確かめることも今後ない(だろう、わからないけれども)。

 

大抵のものは僕の前に現れることなく過ぎ去っていくし、あるものは大抵の人の前に現れることなく消えていく。そこでなんとかしてそれらを留めておくべく記憶したり記録したり他人に伝えたりするのだが、どうしても言葉で記述できない余剰というべきものがあって、それがあるいは音楽になる。だから僕は芸術家が羨ましい。およそそうでない我々はその余剰を前に考えあぐね、抱え込んでいく以外の選択肢がない。

1月-4月, 1

1/22 盛山和夫『制度論の構図』

2/4  エネべザー・ハワード『新訳 明日の田園都市

2/15 中井久夫『世に棲む患者』

2/27 ハンナ・アーレント『人間の条件』

3/1   岸政彦『断片的なものの社会学

3/8   東京ステーションギャラリー『くまのもの』

3/16 山田尚子たまこラブストーリー

3/18 キム・ギドクメビウス

3/22 新房昭之魔法少女まどか☆マギカ

3/23 ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』

3/24 ミシェル・ウエルベックある島の可能性

3/25 プラトン『饗宴』

3/28 バタイユ『エロティシズム』

3/29 杉本博司『江之浦測候所』

4/7   アレハンドロ・ホドロフスキー『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』『サンタ・サングレ』

4/11 村上春樹ノルウェイの森』上巻

4/13 村上春樹ノルウェイの森』下巻

   豊川斎赫 『丹下健三

4/17 宝塚歌劇団月組『カンパニー』『BADDY』

4/20 見田宗介「コミューンと最適社会」

4/23 国立西洋美術館プラド美術館展』

   石榑督和『戦後闇市と東京』

4/24  三浦展,南後由和,藤村龍至『商業空間は何の夢を見たか』

4/26  藤森照信×山口晃『日本建築集中講義』

4/30 森美術館 『建築の日本展』

 

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長文を習慣的に書かないと教養学部時代に身を削って文を書いてついた体力がどんどん失われていき終わってしまうことになると友人に脅されたのでブログを始めることにしました。よろしくお願いします。