うな記

若者の感傷

ノスタルジーと電脳コイル

電脳コイルの奇妙さは、未来の物語であるにもかかわらず、ノスタルジーに訴えかけることにある。そしてそれは過渡期の未来を描くことによる成果だ。ノスタルジーは記憶と結びついている。今ここにはないものを思いかえす、その行為の起点に記憶はある。十分な未来において記憶と記録は一致するが(攻殻機動隊)、電脳コイルはそこには至らない。大人には見えないけれど確かにあったもの、大人には隠れているけれども、子供達にはあった確かな冒険、それが大人には見えない電子データという形で変奏される。老人に子どもたちが扱えるのは彼らが子供の領域にいるからだ。デンスケもメタバグも電子データだ。電子データはマテリアルよりも脆い。紙は100年以上続くがフラッシュメモリは10年と保たない。確かな冒険は失われてしまうし、失われた電子データは記憶をもとにたぐり寄せるほかない。情報化が進んだ未来でこそ記憶が求められるのだ。しかし十分に情報化が進んでしまえば記憶も感覚も記録と同化する。それは過渡期を描いたからこそ、可能な物語であった。