メンタルが降伏するということ
パワハラ*1について話していて,なぜこんなにも自分がパワハラを行う人間が無理なのかについて考えた.で,これはメンタルの病にある性質が関わっているのだと考えた.
アルコール依存症などを例にあげればわかりやすいとおもうが,メンタルの病には基本的に治り切るということがなく,基本的には寛解とされる,症状が治療的にコントロールされている状態に収まる,ということしかない*2.つまり,病にかかる以前,そして病が収まった後はともに症状がないという点で表面上一致しているけれども,実態は全く違うのだ.すこし力を加えれば,転がり落ちるように症状が復活するわけである.
このメンタルの不可逆な変化は材料が降伏する様子に少し似ている.
材料に応力を加えていくとひずみが比例的に大きくなる.弾性域にいる間は,力を取り除くとひずみはもとに戻る.しかし,降伏以後は塑性変形となり,力を取り除いてもひずみはなくならず,また応力に対する挙動も異なったものになる.力を加え続ければやがて破壊にいたる.一度塑性変形に移行したものは不可逆なのだ.
この不可逆性こそが,精神病理の一番きびしいところなのだと思う.そして,パワハラはこの不可逆な変化にコミットしてしまうことが多々ある.それ以前/以後で,彼/彼女の人生の前提条件が一変してしまうのだ.この重大さをパワハラをついやってしまう人間は理解しているのだろうか?そして,これらはそういう人だからということで見過ごされていいものなのだろうか?全くそうは思えないのだ.
見田宗介の文体
見田宗介の文体が好きだ。絶妙な漢字の開かれかたが、独特のリズムを作っていて、遠回りに見えるような書き方が一番まっすぐたどり着くものなのだと思わされる。
今読み始めたばかりの『宮沢賢治』からすこし引用する。もっと長く引用しないとわからないかもしれないが、ともかく。
宮沢賢治の書くものの中には、<汽車の中でりんごをたべる人>というモチーフが、くりかえし印象深くたちあらわれてくる。[……]人間が生のひとときを分かちあいながら、あるいは孤独を噛みながらたしかに生きたということを刻印するあかしのように、汽車に乗る人たちは、いつもりんごをたべている。あるいはりんごを手にもっていたり、ポケットにしまっていたりする。
というところで、この文体はどこからきたのだろうかということを考えている。たとえば村上春樹や古井由吉なら翻訳を通して自身の文体を獲得したし、やたらと漢字をひらくことでしられる熊野純彦のあの文体はやたら漢字ばかり使っていた師の廣松渉の文体に対抗するものだろう。見田のばあいはどうだったのだろうか。はたして宮沢賢治なのだろうか。
徹夜したくない
そのままである。徹夜したくない。夜を徹してまでやるべきことなんて本当にあるんだろうか?あるんだろうな。それが僕の仕事でないことを祈りたい。
睡眠不足はメンタルもフィジカルも削っていく。水木しげるが同世代の漫画家の中でも生き残ったのはちゃんと毎日8時間ねていたからだ。そしてそのぶん多くの仕事をしている。
若いラッパーやDJがサクッと死んでしまうのも徹夜ばっかりしているからじゃないだろうか?彼らは目も赤いがちだからきっとそうなんだろう。
もちろん楽しくて起き続けるのはこの限りじゃない。明日がこないと思えるぐらい楽しくありつづけたい。でもそうでないことで起き続けたくない。徹夜ばっかりしてたってやたら感傷的になってテンタシオンを聞いてエモくなるだけだ。
ちゃんと寝ようという気持ちを忘れがちなころごろ。
ディスコミュニケーション再び
卒論に加えて、二つほど大きくやらないといけないことがあり、発狂しつつある。基本的に自分だけの裁量で済むことならJUST DO ITで終わるが、コミュニケーションを含むと一気に大変である。ディスコミュニケーションがあるとさらに終わる。それが今だ。
で、なんでそれが起こっているかと言えば
- 発言が噛み合っていかない
- 一方が他方の発言を信用していない
- 隠された前提を持っており、かつそれを共有しない
- 発言者が複数になり、議論が発散する
- 発言者が複数になり、一番大事なことから話が逸らされる
- 発言者が感情的になり、議論が破壊される
- 言葉足らずになっている
あたりを考えている。対話を放棄する欲望にかられてきますね。
これを防ぐのはどうしたらいいのだろうか。ひたすら信頼感を高めて、建設的な対話を目指していくぐらいしかわからない。発言をラウンド制にするとかもいいかもしれない。help!
パフェに振られる/純喫茶と大きな鏡/外は戦争だよ
パフェを食べようとおもって新宿に行くが,死ぬほどならんでいる.なので純喫茶に行く.純喫茶ならパフェもあるだろうというところだ.
純喫茶にはたいてい死ぬほど大きい鏡がある.なんでだ.
しばらく考えていたが,
- 店内を大きく見せるため
- 少ない光源を反射させて店内を輝かせるため
というところだろうか.
マネの「フォリー・ベルジェールのバー」(この前東京に来ていたが見逃してしまった)は1882年とかその頃の作だったはずだが,その頃からカフェと鏡はセットなのだろう.
存在の耐えられない軽さにも大きな鏡が出てくる.ラブホテルにたまにある大きな鏡のちょっと洗練されたversionですね.あれってなにがうれしいのかマジでわからない.
そういえば,鏡像段階理論経由で鏡が出てくるエピソードも存在の耐えられない軽さにあった.同性愛的な傾向を抱えた女性がパリにでてラカンのセミネールを受講したあと,若い女性たちを成熟させるために,ソ連軍が跋扈するプラハで彼女たちに互いの身体を手鏡でひたすら観察させるという小話.バカバカしいともいえるがかなりいい.外は戦争だよだ.模倣/装飾/真理としての鏡.
結局パフェではなくシフォンケーキを食べた.シフォンケーキって喫茶店でしか食べないなと思いながら鏡をみていた.鏡にしばらく取り憑かれそう.
アジテーションのための文字数
自閉度をぐーんと下げるために大学へ.卒論をやる.もう少しかかるなあ.帰宅してNPOの仕事の続き.こっちはあらかた終わったので良かった.何をやっているかというと,NPOの代表が書いたパンフレットの製版である.なぜこのNPOをやっているのかを説明するものなのだが,かなり読ませる文章で,身内ながら面白い.5万字ぐらいあるが,何を考えていて,どういうモチベーションで何をやっているのかを共有可能な形にするにはこれぐらいは必要なのだろうなと思わされる.
2025年大阪万博のプランナーで知られる,豊田啓介のアジテーションも,100分のレクチャーを聞くまでは,どういうモチベーションで行っているのか全くわからなかった.100分だと文字数どれくらいだろう.30000字ぐらいか.レクチャーだとスライドが使えるので,視覚的なところで補えるから文字だけにするともう少し増えるだろう.
共産党宣言は今数えたところ35000字ほどある.
https://www.aozora.gr.jp/cards/001138/files/47057_57486.html
新しい運動のためには3〜5万字が必要なわけだ.
JJJの新曲が出ていた.かっこいい.アルバムを心待ちにしている.